博多レター
하카타 레터
博多レター26.キリスト教の教会に行かなくても、一人でしっかり信仰生活をしていれば大丈夫だという人がいますか?
Author
fvc
Date
2024-11-30 16:23
Views
577
博多レター26.キリスト教の教会に行かなくても、一人でしっかり信仰生活をしていれば大丈夫だという人がいますか?
(下記のコラムは、2021.8.27.家の教会ホームページ院長コーナーにあるイ・スグァン牧師のコラムを少し減らして編集したものです。)
牧師として時々受ける質問の一つは、教会に通っていない人についての質問です。 自分の周りにイエス様を信じていると言いながら、キリスト教の教会に行かなくても一人で信仰生活をしても大丈夫だと考えている人がいますが、「この人は救われているんしょうか」という質問でした。 この人は救われたのでしょうか? その人の言葉を借りれば、聖書には教会に行かなければならないということばもないので、キリスト教の教会に縛られることなく、一人で神様をよく信じればいいと言っているそうです。
このような考えは、聖書についてよく知らないから生じる誤解です。聖書は最初から最後まで教会についての話だと言ってもいいほど、教会に対する神様の願いを語っています。神様はイスラエルを神様の民として召され、世界の中でモデルとなるべき祭司の国として召されました。 したがって、イスラエルの人々は一人ではなく、神様の御国の民として、この世界に神様の存在を明らかにする責任があったのです。
だからこそ、旧約聖書にはっきりと見えるのは、共同体です。イスラエルは一個人の過ちにも一緒に罰を受け、共同体に影響を及ぼす悪は切り取る手術を行うほど、共同体としての召命が強調されます。しかし、イスラエルはそのような召命を果たせず、結局、神の民、祭司の国という名称だけがキリスト教の教会に引き継がれます(Ⅰペテロ2:9)。したがって、新約聖書でも私たちに対する神様からの召命は、個人の救いを超えたこの世に向けた神の国の一員としての召命です。
ですから、新約聖書のすべてのメッセージも、個人に向けた言葉というよりは、共同体に向けた言葉です。言い方も最初から最後まで「あなたが」ではなく「あなただち」であり、「あなただけ」ではなく「あなたがたと共に」です。もちろん、「あなたがたは共に」という言葉に信者全員を指す宇宙的な教会という意味がないわけではありませんが、もう少し考えれば、確かに当時に集まっていた実際の小さな共同体を指していることが分かります。実際に、新約聖書はそれ自体が小さな共同体に送られた実際的な指針書でした。
したがって、キリスト教会を無視することは、イエス様を無視することと同じです。 イエス様は弟子たちに向かって、あなたの告白の上に私の教会を建てると言われ(マタイ16:18)、使徒パウロは教会はキリストの体であると言います(エペソ1:23)。つまり、イエス様にとっては教会がすべてなのです。 しかし、その教会を無視しながら、どうやって「自分はイエス様を知っている」と言えるでしょうか、また、「イエス様を愛している」と言えるでしょうか。
「この人は救われているのか」という質問は実に慎重な質問であり、それが救いの問題であるのか、私たちが断言できるのではありませんが、しかし、その人は救われていない可能性の方が高いです。 その理由は、その人の言葉には救いに対する信仰の傲慢さが含まれていると感じられるからです。
信仰の年月は、救いに対する謙遜さで現われるはずです。生きれば生きるほど、救われた者であるにもかかわらず、自分の物足りなさが明らかになり、それにもかかわらず、私を救ってくださった神様の恵みは、より大きな感謝として感じられ、そのような神様の恵みに報いる道を探すようになるのが、成熟した信仰の姿です。
ところが、何もしていないのに「私は救われた」という自信と、自分の信仰だけをしっかり守って生きていればいいという考えは、自分を信じる力ではなく、傲慢なのです。 イエス様がパリサイ人を見て一番嫌ったのは、まさに自分が救われたという鉄のように信じていたその信仰にある傲慢の問題でした。
使徒パウロはこう告白します。「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」 (Ⅰコリント9:27)」使徒パウロがこの言葉をどのような意味で言ったかについては、学者によって多少の異論はありますが、私はこれが彼が信徒として感じる自分の物足りなさに対する緊張と自分の信仰に対する謙遜の表現だと受け止めています。使徒パウロがこうだったら、私たちはどうしたらいいのでしょうか。
私たちにとって、救いの確信は確かに必要です。しかし、救いの確信は、それによって私たちが神様に自由に近づき、温かい関係を楽しみ、最終的にそれによって神様にもっと忠誠を尽くすために必要なものであって、どう生きてもいいという安心感を与えるような安全装置になっているのであれば、それは間違いなく間違った確信です。
信仰はあるが、キリスト教の教会には通わないというその方の言葉は、これまでのキリスト教の教会が教会らしくないがゆえに生じた現象であり、その責任はその方にあるのではなく、私を含むすべての信者にあります。 しかし、その間違いに気づいて努力しているキリスト教の教会があるという事実も覚えておいてください。(2024.12.01.)
(下記のコラムは、2021.8.27.家の教会ホームページ院長コーナーにあるイ・スグァン牧師のコラムを少し減らして編集したものです。)
牧師として時々受ける質問の一つは、教会に通っていない人についての質問です。 自分の周りにイエス様を信じていると言いながら、キリスト教の教会に行かなくても一人で信仰生活をしても大丈夫だと考えている人がいますが、「この人は救われているんしょうか」という質問でした。 この人は救われたのでしょうか? その人の言葉を借りれば、聖書には教会に行かなければならないということばもないので、キリスト教の教会に縛られることなく、一人で神様をよく信じればいいと言っているそうです。
このような考えは、聖書についてよく知らないから生じる誤解です。聖書は最初から最後まで教会についての話だと言ってもいいほど、教会に対する神様の願いを語っています。神様はイスラエルを神様の民として召され、世界の中でモデルとなるべき祭司の国として召されました。 したがって、イスラエルの人々は一人ではなく、神様の御国の民として、この世界に神様の存在を明らかにする責任があったのです。
だからこそ、旧約聖書にはっきりと見えるのは、共同体です。イスラエルは一個人の過ちにも一緒に罰を受け、共同体に影響を及ぼす悪は切り取る手術を行うほど、共同体としての召命が強調されます。しかし、イスラエルはそのような召命を果たせず、結局、神の民、祭司の国という名称だけがキリスト教の教会に引き継がれます(Ⅰペテロ2:9)。したがって、新約聖書でも私たちに対する神様からの召命は、個人の救いを超えたこの世に向けた神の国の一員としての召命です。
ですから、新約聖書のすべてのメッセージも、個人に向けた言葉というよりは、共同体に向けた言葉です。言い方も最初から最後まで「あなたが」ではなく「あなただち」であり、「あなただけ」ではなく「あなたがたと共に」です。もちろん、「あなたがたは共に」という言葉に信者全員を指す宇宙的な教会という意味がないわけではありませんが、もう少し考えれば、確かに当時に集まっていた実際の小さな共同体を指していることが分かります。実際に、新約聖書はそれ自体が小さな共同体に送られた実際的な指針書でした。
したがって、キリスト教会を無視することは、イエス様を無視することと同じです。 イエス様は弟子たちに向かって、あなたの告白の上に私の教会を建てると言われ(マタイ16:18)、使徒パウロは教会はキリストの体であると言います(エペソ1:23)。つまり、イエス様にとっては教会がすべてなのです。 しかし、その教会を無視しながら、どうやって「自分はイエス様を知っている」と言えるでしょうか、また、「イエス様を愛している」と言えるでしょうか。
「この人は救われているのか」という質問は実に慎重な質問であり、それが救いの問題であるのか、私たちが断言できるのではありませんが、しかし、その人は救われていない可能性の方が高いです。 その理由は、その人の言葉には救いに対する信仰の傲慢さが含まれていると感じられるからです。
信仰の年月は、救いに対する謙遜さで現われるはずです。生きれば生きるほど、救われた者であるにもかかわらず、自分の物足りなさが明らかになり、それにもかかわらず、私を救ってくださった神様の恵みは、より大きな感謝として感じられ、そのような神様の恵みに報いる道を探すようになるのが、成熟した信仰の姿です。
ところが、何もしていないのに「私は救われた」という自信と、自分の信仰だけをしっかり守って生きていればいいという考えは、自分を信じる力ではなく、傲慢なのです。 イエス様がパリサイ人を見て一番嫌ったのは、まさに自分が救われたという鉄のように信じていたその信仰にある傲慢の問題でした。
使徒パウロはこう告白します。「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」 (Ⅰコリント9:27)」使徒パウロがこの言葉をどのような意味で言ったかについては、学者によって多少の異論はありますが、私はこれが彼が信徒として感じる自分の物足りなさに対する緊張と自分の信仰に対する謙遜の表現だと受け止めています。使徒パウロがこうだったら、私たちはどうしたらいいのでしょうか。
私たちにとって、救いの確信は確かに必要です。しかし、救いの確信は、それによって私たちが神様に自由に近づき、温かい関係を楽しみ、最終的にそれによって神様にもっと忠誠を尽くすために必要なものであって、どう生きてもいいという安心感を与えるような安全装置になっているのであれば、それは間違いなく間違った確信です。
信仰はあるが、キリスト教の教会には通わないというその方の言葉は、これまでのキリスト教の教会が教会らしくないがゆえに生じた現象であり、その責任はその方にあるのではなく、私を含むすべての信者にあります。 しかし、その間違いに気づいて努力しているキリスト教の教会があるという事実も覚えておいてください。(2024.12.01.)
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Hakata Letter 89. When You Want to Give Up
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